Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

La Nuit americaine 2


La Nuit americaine (1973)

アメリカの夜」は、映画作りに関する断片的なエピソードの集積でできている。花瓶でも猫でも、これほどいきいきとした映画はめずらしい。

トリュフォーが実際に体験した、あるいは見聞きした、あるいは創作したとりとめのないイメージたちと、それらの総体として立ち現れる、あるいは何気ない場面に垣間見える「ヴェリテ(真実なるもの)」との間に活発な交流がある。もちろんストーリーはあるけれど、それはそのままでは拡散してしまうシーンたちが「アメリカの夜」の中でしかるべき場所を与えられるための補助線といったほうが近い気がする。

だから、ブリコラージュというキーワードによっても「アメリカの夜」を語れると思う。描かれている映画制作の現場はその場しのぎの連続と言ってもいいくらい。予算不足、俳優陣の人間模様、あげくの果てに…。そんな悲喜劇こもごもの制作現場。

で、現実の「アメリカの夜」の現場も遠からぬ状況だったのだろう。完璧主義者の監督たちの作品と比べると、完成度のかの字もないような映画だから。それでもありあわせでのその場しのぎや、即興のシーンを飲み込みつつ、傑作として自立させてしまうのは、トリュフォーの分厚い素養とセンスによる所が大きいのだろう。これぞブリコラージュ。器用仕事によるパッチワーク。

何かを創ることについての真実を、映像や音楽による芸術的誇張によって、いたずらっぽいユーモアを怒涛のようにもりこんで、彼は描いてみせる。しかも、その創るというのも、「アメリカの夜」の中での映画制作と、現実に「アメリカの夜」を作る現場が渾然一体となっている、そのユニークな二重性があるようだ。

そして、形ある作品に限らず、より広い意味で人間誰でも創造性を持っているとしたら、だからこれから時を重ねるたびごとに、何かを創るごとに、この映画を思い出すのかもしれない。そうだなー、たとえばあの、バターを必死で練りあげるシーンとかね!