Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

玉川上水と分水による武蔵野地域の形成

今日は予告の通り、修論構想発表のレジュメの冒頭の一部です。関心・目的はなんとなく伝わるでしょうか?

関心・目的

玉川上水は、幕府開設以来の急激な人口増加による江戸市街の水不足に対応するため、承応2年(1653)に開削された上水路である。多摩川を水源とし、取水口のある羽村から四谷大木戸まで距離約43km、標高差約91mの区間を、武蔵野の分水嶺に乗り上げて通した※。それは本水路の開削以来設けられた幾多の分水が武蔵野台地の諸地域の通水や新田開発のための灌漑などに利用され、乏水性台地であったこの地域の発展に大きな影響を与える大規模な水系ネットーワークを形成するものでもあった。

玉川上水本水路は江戸市街の飲料水確保を第一の目的として作られながら、他の上水への助水や沿岸の景観整備といった機能が派生していったが、それぞれの分水も決して一様に開発されたものではない。享保期には新田開発のために積極的に多くの分水が作らたり、また水車にも利用されるというように、インフラが場所と時代に応じて意味と役割を変えながら利用されていた。

修士論文では、玉川上水と分水を切り口として武蔵野という江戸の広大な後背地の形成過程を横断的に捉えるとともに、近世期の幕府や村落の関係の様相を明らかにしたい。具体的な作業としては、寛政2年(1790)の調査によれば33か所あったという分水を類型化し、特徴的なものを抽出したうえで、その分水および経由村落の形成過程や用水の管理運営の詳細を追い、論点を明確化していきたいと考えている。

玉川上水と地形と流路の関係については、野中和夫編『江戸の上水』第一章(執筆:橋本真紀夫・矢作健二)などに詳しい。