Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

歩いた距離、日没

僕が修論で対象にしている地域は広い。現在の行政区画でいうと西は羽村市福生市立川市などから、東は北区、新宿区、品川区あたりまでも含む。玉川上水と分水がそれだけの広範囲に渡っていたからで、論文においてこの広域スケールをどう捉え、扱うかという問題には最後まで苦労するだろう。

この広範囲であるが、ここ数か月というもの、主に週末など暇な時間を利用して、各市町区の図書館・資料館を訪ねたり土地勘を把握するために、歩いての現地視察をコツコツと続けている。おかげで東京の地理には少しずつ詳しくなった。やはり現地を訪れていると、関連する文献を読んだ時の理解度もぐんと上がる。また、修論では(微)地形がキーワードになってくるのだが、これは現地に身を置かなければなかなか実感できない。ちなみに、最近は行った先に神社があれば修論が無事に提出できるようにお参りすることにした。武蔵野の神々の力を借りたいところだ。

ところで、これらの現地視察や、留学中の旅行で色々な街を歩き回って、「身体で」分かるようになったことがふたつある。

1、自分がその日歩いた距離
特に10km歩いた時の感覚が分かるようになった。これは体力と集中力の疲労度や歩いた時間からなんとなく分かり、後で地図上でルートを確認してみると大体当たっている。加えて、次の日に疲労を残さないさじ加減も身に付いてきた。

2、日没のタイミング
これは調べればデジタルな時刻は簡単に分かることだが、少しニュアンスが違う。日が沈むのはいつ頃か、そのとき自分がどこにいて、どれくらい疲れているか、それら一連のアナログな感覚の総体が、日が傾きはじめた頃に予測できるようになった(ただし、いつまでたっても日が沈まない夏の北欧は完全に例外だったが)。思えば子供の頃から、午後から夕方はたいてい外で遊んでいたか、サッカーの練習に行っていた。だから日没の時刻に屋内にいるのは、自分のこれまでの人生からみればむしろごく最近になってからのことだ、とも気づいた。

自分の身体を外の自然に感応するための装置に化すような感覚は、東京でもまだまだ可能性があると思いたい。