Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

雨にも負ける自分だけれど

僕の部屋に、随分前に松本の祖父母の家からもらってきた、帽子をかぶった宮沢賢治の黒いシルエットに白い文字で「雨ニモマケズ」が書かれた平らな木の飾り物がある。宮沢賢治は特別に詳しい訳ではないが、たとえば漫画家の羽海野チカの自作への取り入れ方が賢治への敬愛にあふれていて素晴らしいように、他の本やら何やらの中でもちょくちょく出てくるし、彼のことはたえず意識の片隅にはあるのだった。こういう性質は、広く影響を与える人の常なのだろう。

雨ニモマケズ」について考えるのもわりと好きで、最初に意識したのは塩野七生の『ローマ人の物語』のアウグストゥスの巻を読んだ時だった。アウグストゥスは身体は実に虚弱だったらしく(暑さにも寒さにも弱かった。)、パクス・ロマーナの基礎を築いた初代皇帝でローマ史上最も偉大な人物の一人であるアウグストゥスも、雨ニモマケズの評価基準では一行目からつまづくのだな、はは、と思った。しかし「アラユルコトヲジブンノカンジョウニイレズニ」あたりから盛り返してきて(怖ろしいまでに醒めた、三十五歳であった。)、広い帝国の東西南北の問題への対処などでアンダー・パーに至るのだった。

原文の中で最近僕が興味があるのも東西南北のくだりで、考えてみればどの方角でもネガティブな出来事ばかり起きていることにあらためて気づいた。どこか一方向くらいは、目出たいことがあって喜んでいる人の所に行って祝ってやり…とかがあっても良さそうなものなのに、それがない。このあたりに、多分に自己中心的で我田引水ではあろうが、妙にシンパシーを感じるのだな。

さて自分に照らし合わせてみると、やはりアウグストゥス同様に出だしから心許ないものの、前述のような些細な共感や手応えもあるわけで。「雨ニモマケズ」をネットで検索するとアイロニーの効いたパロディも見つけられて、それはそれで非常に面白いのだが、やはり原文の意に素直にしたがって、自分の位置を顧みる基準点の山や日のような存在としておきたい。表面だけを見れば綺麗事の言葉群かもしれないが、そこに清濁を盛り込んでいき、「サウイフモノ」に近づいていく試み。