Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

トレーニング(イスラエル、ヨルダン旅行記 12)

9月20日 午後

入国審査のゲートを抜け、検査に預けていたトランクも見つけ、ようやくイスラエル側の空の下に出る。暑さは一層厳しくなっている。審査での心労に早起きもあいまってどっと疲れたので、値段は張るがエルサレムの宿まで45分ほどの道のりはタクシーで送ってもらうことにする。おなかも減ったなと車内でハリボーを食べ始めたら、差し歯が抜けてしまった。帰国してから歯医者に行けばよいだけで問題はないのだが、捉え方によっては不吉でもあるこのささいなアクシデントも、とりあえずキング・フセインのせいにする。タクシーが走り出してすぐに左側遠方にエメラルド色をした死海を望め、また少し行くと右側遠方に世界最古の町の一つといわれるエリコも見えた。そしてヨルダンのオレンジがかった大地の色とは全く違った白っぽい岩肌と水色の空が嘘のように広がっている。本当に国境を境にして、何かの強い意志がはたらいているかのように、はっきりと景色が変わった。

やがて建物の密度が高くなってきてエルサレム市域に入ったらしい。新市街にある宿のすぐそばで降ろしてもらう。新市街は真新しいトラムが走っていて、お店の並んだ賑わった通りがあって、「なんだ、ただのいい感じのヨーロッパか」という親近感をまず感じた。ヘブライ語はこれまた馴染みがないが。宿にチェックインして昼寝などしたのち、夕方にはエルサレム在住三年目の日本人、飛岡の大学の同期で宇宙物理専攻、ヘブライ大学にてポスドクをしているH君と合流する。フェイスブックでのやりとりはだいぶ積み重なっていたが、無事エルサレムに来られて実際に会えて、これもちょっとした奇跡感。宿の目の前のシオン広場にあらわれた彼は、スポーティーな自転車をたずさえていて、ちょっとジョギングしてきました、みたいなラフないでたち。本人にとっては日常なのだろうけれど、街の風景に完全に溶け込んだその生活感をとても頼もしく感じた。もうイスラエルでは知り合いがいるから安心なのだと。とりあえず彼いきつけのお店に寄りビールで乾杯し、旧市街をざっと一回り案内してもらう。聖墳墓教会嘆きの壁、遠くから見ただけだが岩のドームと、歩きながらだべっている間に次々と聖地が登場する。

新市街に戻り、夕食にグルジア料理のレストランに入ろうとした時だった。突然ものものしいサイレンが鳴り響く。それは救急車や消防車のサイレンとも様子が違って、もっと真上から降ってくるような感じがした。H君によれば、これはミサイルが飛んでくるときのサイレンだけど、今日は訓練のはずだから大丈夫。朝も鳴った。レストランの女将さんとも「トレーニング」であることを確認しあっていた。しかしそれにしても、イスラエルに着いて初日の夜にミサイルのサイレンとは驚かされた。夕食の席でもH君は日本大使館から届く危険情報についてのメールを見せてくれて、「ダマスカス門付近で刃物を持った男が云々、近づかないでください」。エルサレム旧市街が荒れているというのは、ムスリム地区周辺でパレスチナ人とユダヤ兵士の小競り合いが増えているということらしい。ただ、日本人が直接の標的になることはないので、巻き込まれぬように指定の場所に近づかなければよいだけの話で、そこまで神経過敏になる必要はないのだと、H君や宿や店の人たちの言葉や振る舞い、あるいは彼ら周囲の全体的なムードから受けとめる。そうしてミシェル・ウエルベックの『服従』の一節をここでも思い出す。近未来のフランスが舞台の小説だが、フランスの政情不安定により、ある登場人物が家族でイスラエルに移住した件(くだり)だ。

イスラエルは建国時から戦争状態にあるから、テロも闘争もそこでは一種の逃れられない自然な要素になるし、それが人生を楽しむのを妨げるわけではない。

それが人生を楽しむのを妨げるわけではない。…たしかに日本に帰国してから最初に出社した日、日本あるいは東京は安全、清潔、便利で天国のような場所であることを再認識する一方で、駅や道を行き交う人々の顔つきが決してイスラエルより明るく見えるわけではなく、なんとも妙な気持ちにとらわれた。

グルジア料理はボリュームたっぷりのサラダ、野菜や肉を煮込んだいかにも滋養のありそうなスープも美味、近くの席にはロシア系と思われる大家族があたたかな夕食の時間を過ごしていて、大きな犬がお店の中をゆったり回っている。なにかとても満たされる時空間がたちあらわれていた。H君からも、彼の育った大阪についての独自の分析など聞けて興味深い。とりあえず明日も夕飯食べよう、飛岡もテルアビブから来るかもしれないし、と大体の予定を決めて別れる。