Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

エルサレムでのあらゆる石(イスラエル、ヨルダン旅行記 14)

9月21日 午後

昼過ぎにヤド・ヴァシェムから一旦宿に戻り、午後はゆるりゆるりと歩いてエルサレムの旧市街へ出かける。昨日H君に案内してもらって主な名所は回ったけれど、再度ゆっくりと歩いてみる。昨日はどちらかといえば歩きながらの会話のほうを楽しんでいたが、あらためて一人で回ると、旧市街のまったくもって独特な、ある種異様な雰囲気を思い知らされる。城壁で囲まれた迷路のように入り組んだ都市空間、だけならまだしも、そこに覆い被さっている意味的なものたちが、ごた混ぜで、もうわけがわからない。

十字架や聖母マリアをあしらった土産物屋が居並ぶ路地を抜け、イエスが十字架にかけられたとされる場所に立つ聖墳墓教会を過ぎて一分も歩くと突如空気の層が変わってアラブの甘い匂いにはっとさせられ、アラビア語だらけの路地が現れ、店頭の人たちも今はもう皆アラブ人なムスリム地区に入り込んでいて、しかしキッパ(帽子)をかぶったユダヤ人の子供たちが勝手知った顔で通り過ぎていきもして、彼らを追うようにイエスが十字架を背負って歩いたとされる道を引き返していると、モスクのスピーカーから流れる礼拝を呼びかけるアザーンだろうか、大音量で鳴り響く。エルサレムの旧市街に身を置いていると、あらゆる種類の石を際限なく体内に流し込まれてくるような、あるいは異常に密度が大きくしかも不可思議な形をしたものを道行く人たち皆から手渡されてくるような、そんな感覚におそわれる。静謐とか感動的とか神々しいとか、そういった自分の手持ちのパターンにあった聖地感とは程遠い衝撃をそこに感じるのだった。で、新市街へ戻るとまたヨーロッパめいた街の賑わいが待っている。

夜は飛岡と彼女のTさんがテルアビブから遊びに来てくれて、一緒に夕食へ(エルサレムとテルアビブはバスで45分くらいの距離)。飛岡はグルジア料理を食べたがったが、僕とH君がすでに昨日食べてしまっていたので、昨日のもうひとつの選択肢だったエチオピア料理に挑戦してみることに決まる。黒人のおばさんが切り盛りしている薄暗い店内で、最初から最後まで他のお客さんは来なかった。やがてH君も合流して四人になる。料理はというと、なんと表現してよいのやら、灰色のクレープ状の生地を、テーブル中央の焼いた(煮た?)肉や野菜と一緒に素手で食べる。美味しいというよりは珍体験として貴重な時間を共有しながら、ユダヤの習慣で困ったことといったイスラエル生活あるある話を聞いて楽しむ。例えば安息日(土曜日。ユダヤ教の休日。あらゆる労働が禁止されている)に何が禁止かという問題では、電気については自動で動いているものはOK、人間がスイッチを入れるなどの操作をすることはNGで、したがって安息日のエレベーターは一日中自動で各階に停止するように動き続ける。他にも、僕がここでエピソードの受け売りばかりしても仕方がないが、特にエルサレムは宗教色の強い街で、H君はとある安息日に自転車に乗っていただけで正統派ユダヤ人に咎められたらしい。両足が宙に浮いているのがだめなのだとか。このように、ユダヤの世界観と現実社会との折り合いをつけるためにひねり出された理屈が、滑稽な喜劇の様相を呈することも多々あるようだ。「全体性が一度措定されてしまうと、その後に起こった事柄がその全体性にうまく合致するかどうかは、もはや確率の問題でしかない」といった内容の文章を青木淳さんが書いていたことも思い出される。

二十一時頃にお店を出て、飛岡とTさんとは「また二日後にテルアビブで」と言って解散する。

シオン広場での生演奏の音楽が宿の部屋にも音量を落とさずに入ってくるためなかなか眠りにつけず、二十三時頃に気を紛らわそうと宿の屋上テラスに出てみる。すると朝食の席で一緒になったフランス人のニコラがいてしばらく会話する。彼はいかにもといった感じのおしゃべり好きの気さくなフランス人のおじさんで、普段はポワティエで美容師をしているらしい。ジャン・ルイダヴィドやフランク・プロヴォのようなチェーン店ではなく、自分のお店。なんでもフィギュアスケートの元王者ブライアン・ジュベールの髪を切ったことがあるとかで、これは僕にとってはけっこうツボだった。なにしろブライアン・ジュベール本人に会うよりもブライアン・ジュベールの髪を切った美容師に会うことの方が、ある意味難しいと思われて。にしても、ブライアン・ジュベールって、なんか書きたくなる言いたくなる名前ですね。同じ種目のステファン・ランビエールも格好いい名前だと思う。