Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

少しずつ引導を渡したい

アメリカ大統領選挙の結果にはとても驚いた。結果が出た当初の一週間ほどは、事実確認やアメリカ、日本、各国のリアクションを知らせるニュースを追っていた。それから少し日が経った今は、また様相の異なった複雑なショックが後から後からやってきている。

今回、アメリカにおける社会の歪みや既存の政治への不信が想像以上に深刻だったことに驚いたわけだが、この展開はまったく他人ごとではない気がしている。抱えている闇が実は大変に深くて、それが傍(はた)から見ると「どうしてそんなことを」と不可解に思われるような決断をするという事態が、自分にも、また自分と関わりのある集団にも遠くない将来に生じるのではないかという漠然とした不安がある。今のところ、具体的な兆候があるかは別として。

闇が深いといえば、電通の新入社員の女性の過労自殺事件は、本当に耐えがたい悲しみや憤りを感じる出来事だった。小説家の平野啓一郎さんがあるインタビューで、人が死ぬようなバッドエンドの小説について

「世の中のシステムそのものは安定していて、そこにたまたま悪い人がいて殺人が起き、それを捕まえる警察もいるような話であれば、読者はそれほど不安を感じたりはしない。しかし、世の中のシステムや世界観そのものが崩壊に瀕していて、それが一つの死をもたらしているという状況には、読者はなかなか耐えられない」

と語っていたが、まさにその類の耐えられなさだ。しかも小説ではなく現実の出来事なのだった。電通はこの事件をうけて夜間の一斉消灯を実施しはじめたと記事で読んだ。僕の会社も最近とみにノー残業デーのトップメッセージが強まった。同じような会社も多いと想像する。けれど、穿った見方をすれば、全員が同じであることをよしとするいかにも日本的な気質が、社会のなりゆきに応じて「強制労働」とは別の方面に一時的に発揮されているだけにも思える。そう考えると、今後のなりゆき次第でまた形を変えて悲しい事件につながるような方面に向くのではないかという恐れは、まだぬぐえない。もちろん、自分の中にもこの気質がきっとあるのだろう。

一斉消灯もノー残業デーも、その他ライフワークバランスという発想を広める取り組みもひとまずは良いと思うけれど、そうした対処でまずはやり過ごしつつ、僕たちの世代がいわるゆる社会の中堅と呼ばれる以降の時代には、より一人一人が、特に弱い立場の人たちが主体性を持って生活できるように、先述の古めかしい気質に少しずつ引導を渡していければと思う。まずはやはり、「とりあえずの飲み会」に対しては冷ややかな視線を向けるとことあたりから始めていければ。