Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

ひねられたネガティブ

融通がきかないというかブレないというか、会社に通い始めてから三年以上が過ぎても未だに、むしろますます、会社周辺のビジネス街の雰囲気になじめないでいる。同じようなきちんとした無難な格好をしたビジネスマン(割合としては男性が多いが女性も含む)が闊歩し、それからとってつけたようなブランド店等々が、上の階のオフィスをもとに定められた建物のスケールに従うがゆえの避けられない単調さで軒を連ねている。他にも街を作っている要素はあるけれど、まあ、それらをもって賑わいのあるまちづくりが達成されているということらしい。賑わい様は神様です。もちろん「職場周辺が大好き」なんて人は少ないと思うけれど、自分の場合は外に出るのも気がめいること多く、生理的にやっぱり違うな、という感覚が最近強まっている。本当はその感覚を源から順を追って丁寧に言語化していく必要があるのだろうけれど、その作業も面倒がる、ちょっと投げやりな気持ちになっていることはよろしくないですな…。

このように、特に最近はニヒリスティック、ペシミスティック、あるいはシニカルに物事を見ることが一層多いのだが、原因のひとつは、ここ一年くらいはそうした特徴の強い作家の本を読むことが多かったこと。これぞ読書というものの本領という感じだが、どことなく抱えていた心のひっかかりめいたものにそれらの文章が呼応して、すっと身体の内側に入り込み、大小さまざまの振動や波動を起こすのだろう。そんな文章の一例を以下に引用してみた。主人公が新しく購入したデジカメの説明書を読んでいる場面。

製品コンセプトの根幹部分には、十分に練られた、人と人の絆を大切にするおおらかな楽観主義があることは明らかだった。現代のテクノロジー製品にしばしば見られるこうした傾向は、しかしながら、必然性を備えたものではなかった。たとえば「シーン設定」に並ぶ「花火」や「浜辺」、「赤ちゃん1」、「赤ちゃん2」といった項目の代わりに、「葬式」、「雨の日」、「老人1」、「老人2」といった項目が入っていても少しもおかしくないはずだった。

製品をまちづくりに、その他の単語も適宜しかるべきカテゴリー内におさまるものに置き換えれば、そのまま先に書いたビジネス街への愚痴を後押ししそうではないか。

さて、ここからが面白いのだが、ニヒリスティックでペシミスティックでシニカルな作家や文章であろうとも、それらに惹かれ、お金や時間や労力を払い、「この上もない」と表現してもよいくらいのある種の楽しみや喜びを感じて読んできたのは事実であり、だから、その一連の読書の行為や態度は、ニヒリズムやペシミズムやシニシズムとは最も遠いところにある、ポジティブななにがしかのものである、とも言えるのだった。ポジティブやネガティブがひとひねりされて、そこに興趣が生じているような、抽象的な言い方だけれど、そんな感じだ。仮に自分の気持ちの総体をポジティブとネガティブに仕分けしてみれば、意外にひねられたネガティブという名のポジティブが存在感を示すのかもしれない。というか、示してほしい。