Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

マチネの終わりに

昨年の4月から、月曜日の午前中の部会で、互いのことをよりよく知る機会にと、平均して2週に一度ほど、自己紹介の時間が設けられた。僕も6月頃に、これまでの担当物件や学生時代の活動を話した。プレゼンの後半では、読書の趣味の紹介も加えた。その中に、作家の平野啓一郎さんにもらったサインを写したスライドがあった。本の表紙を一枚開いた見開きの左側ページに大きく、漢字でサインが書かれている。本は『マチネの終わりに』だったが、自己紹介の中では小説の題までは話していない。

さて、そのスライドが、当時中途で入社されたばかりの方の目にとまった。この方の名前は仮に、『マチネの…』の主人公の蒔野からとって、Mさんとでもしておこう。僕の自己紹介の後、あれ『マチネの終わりに』ですか?スライドの隅に映っていた、表紙カバーの鮮やかな青色から分かったらしく、そう尋ねられた。Mさんも本が好きで、平野啓一郎の小説は読んだことがなかったみたいだが、幅広いジャンルにわたって相当に色々な本を読んでおられて、詳しい。英語の本を読んでいることもある。わずかな青を手がかりに特定してしまうとは流石だなと思いながら、話の流れで僕は『マチネの終わりに』を薦めることになった。

一週間ほど経った頃だろうか、彼から、感激をもって読み終えたこと、そして推薦してくれたことへの感謝を伝えられた。それから2か月ほど経った後にも、あの本を読んで以来ずっと幸福な気持ちだ、とまで言ってくれていた。僕としては、誰にとってもハズレはしないだろうと思って薦めたのだが、ここまで賞賛していだけるとは思ってもみなかった。

いつしか本の感動を誰かと共有することは減ってしまっていたし、自己紹介で話をしたときも、ピンときてはもらえないだろうと諦めながら話していた。なので、Mさんの感想を聞いて、まだたまにはこういうこともあるんだな、と思った。しかも加えて、つい先日には、彼の奥さんもこの小説を読み、やはり絶賛していたとのこと。最後の場面では涙を流しもしたらしい。僕にとっては、一枚のスライドが、間接的に、会ったこともない人の涙にまで繋がるとは…感じたことのない種の、ささやかながら健康的な満足感に心が満たされた。こうして、自身の読書体験をこえて、『マチネの終わりに』は自分にとって唯一の本となったと思う。それと自分にとってこの小説は、また別の角度からの重要性もある。