Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

バリェーカスの少年

興味関心のバイオリズムがあるのだろうか、ここ1、2年ほどは、大学の学部生のときのように、比較的せっせと展覧会めぐりをしている。われながら奇特なことだと思う。最近の中で特に感銘を受けたのが、上野の国立西洋美術館でのプラド美術館展。その中でもベラスケスの「バリェーカスの少年」。画像はウィキペディアより。まずは展覧会の作品紹介からの引用を載せよう。

「当時の宮廷では障害を持つ矮人や道化たちが「慰みの人々」として仕えていることが常で、ベラスケスは彼らの肖像を数多く制作しました。「バリェーカスの少年」として知られる本作の像主は、本名をフランシスコ・レスカーノと言い、王太子バルタサール・カルロスの遊び相手として宮廷に暮らした矮人でした。ここでベラスケスは堅苦しい王候の肖像画のしきたりから解放され、構図や人物のポーズ、表情などにおいて先例のない新たな試みを行っています。短い脚や大きな頭部といった特徴を大ぶりの筆致で包み隠すことなく表しながら、それでいて像主には国王や貴族と何ら変わらぬ、一人の人間としての尊厳が与えられているのです。」

最後の一節に、賛成する。ベラスケスが矮人の肖像を多く制作していたことは知っていたけれど、展覧会を訪れる前は、メトロの駅に貼られた展覧会宣伝用の大きなポスターに「バリェーカスの少年」の顔がアップで写っていたのを見ても、それが矮人の肖像画の一部とは思いつかなかった。その表情には、僕たちが障害を持つ人のうちに認めたがってしまう類の欠落感のようなものはなかった。そして展覧会で実物を見ても、全身が堂々と中央に据えられ右側に遠景が配されたダイナミックな構図といい、勢いのある闊達な筆のはこびといい、ただただ素直に魅力的な絵だと思った。

ところで展示では、「バリェーカスの少年」の両隣りに、別の画家たちの作でやはり矮人を描いた絵画が配置されている。展覧会のメイン作家であるベラスケスを際立たせようという企画側のこの意図は、残酷なまでに成功していると感じた。なぜなら両隣りの絵の中の矮人たちは、斜め上方から見下ろされる視点で描かれ、表情も醜く戯画化されていて、なんとも陳腐な印象を与えるものだったから。

このことには、思い出すほどに寒気を感じる。近代的な人権という概念が登場するさらに前の時代のことだ、両隣りの画家たちは「ごく自然に」矮人の像を描いたに過ぎないはず。しかし、時代の常識や成り行きを無批判に受け入れることが、この上もなく愚鈍な行為となることがあり、しかもそれが永久に記録として残ってしまうことがあるようだ。ベラスケスがいる限り、言い訳もできない。そして、さて現代の自分や周りをふと思ってみても、時間的、空間的な外部から見ると侮蔑を買いそうな言動を日々垂れ流して生活しているのではないか、という嫌な予感もしてくるのだった。とはいえ萎縮してもなにもできない。精々後悔が少なくなるようにはしていこう、といったあたりが気分の落ち着きどころだろうか。そのように考えてから再び絵画を眺めると、バリェーカスの少年ことフランシスコ・レスカーノが、なにやら自分たちを嘲笑っているようにも見えてくるのだった。