Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

走ることについて語る人たちに語ってほしいこと

今週は普段とはちがう不慣れな仕事に従事していたこともあり、木曜日あたりからそろそろ集中力の疲労が著しくなってきた。けれども金曜日にはどうにか来週への目処が立ち、明るいうちに家に帰ることができた。その日は晴れていて暖かかったので、久しぶりにジョギングをすることにし、2月のフットサルの景品で手に入れた濃青色のトレーニングシャツを着て外に出た。

コースの近所の緑道は、桜が嘘のようにすっかり散って、あおあおとした若葉に覆われていた。そして、桜と入れ替わるようにして、つつじやはなみずき、その他、花の名前に詳しくないことが残念なほどに多種多様な花々に彩られていて、誰かが香油をつけた指で地図をスーッとなぞったがごとく、細くくねくねと曲がった数キロにわたって甘い匂いがたちこめていた。走るピッチは自然と穏やかに整い、頭と心がどこまでもすっきりと澄んでいくかのよう。いい汗をかいた。

こうして、運動はよいものだなとしみじみと感じ入った。一方であらためて、マラソンを走ってみようとはまったく思わないなあ、との連想もわいた。それはひとつには日常の街の中を、たまに信号で止まったりもしながら、厳密なコースは定めず時間も気にせず、散歩のように気分次第で走るほうが好きであるから。もうひとつは単純に、完走できる自信がないから。より正確に言えば、完走するぞという意志を持てる自信がないから。自分ならば、たとえば30キロあたりでもうだめだと思ったとき、弱気の虫にとりつかれた気持ちを奮い立たせて苦しみを乗り越えて終盤に挑む姿よりも、沿道の声援を重荷に感じながら、ドロップアウトを少しでも正当化するために大げさに苦しみに喘ぐ演技をしてすごすごとコースを外れ、人の群れから離れていく姿ばかりを想像してしまう。そんなことをあれこれ考えるな、案ずるより産むが易し、まずは挑戦してみることだ。マラソン愛好家の人たちはそう語るのだろうけれど。

自分がこれまで見たり聞いたり読んだりしたマラソン経験者の話というのは、完走の達成感に収斂していくものがとても多いという印象がある(とはいえ村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』はとても良い本だった。何と言っても、村上春樹のあのストイックさは好きだ)。実際、知人でマラソンを走った人たちも、タイムはともあれ完走している人ばかり。完走できなかった、途中であきらめた、挫折した。けれども卑屈にならず虚飾もおこなわず、それはそれでひとつの経験として淡々と魅力的に語った人の話や文章に出会うことができたなら、自分がマラソンに抱いている抵抗感も、また違った感情に変化していくのだろう。読書や会話を通しての疑似体験は、ある種の保険でもある。