Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

マチネの彼方に

平野啓一郎の『マチネの終わりに』を会社の本好きの先輩に勧めたところ、読んだ先輩が絶賛してくれ、ついでにその奥さんも感激してくれ、たいそう感謝されたことは、自分の人生の中でも最大の達成のひとつだと、誇張でなく思っている。それから月日が経った今でも相変わらずその先輩は本の虫で、数日ごとに読んでいる本が変わるほどだ。特に吉田修一の小説を愛読しているらしい。僕は読んだことがなかったが、着実に吉田修一の名前は意識に入り込んできていた。

そんなわけで、先日、氏の新作『続 横道世之介』刊行記念のサイン会が開かれると知り、機は熟したとばかりに丸の内の丸善に赴いた。時間に余裕を持って会場に着いたつもりだったが、既に長蛇の列ができている。場所柄スーツの上にコートをはおったビジネスマンが多いが、若い女性などもちらほらと混ざっている。三十分近く待って目の前でお会いした吉田さんは、ほぼ写真で見るイメージのとおり、短髪にスマートな眼鏡をかけた、眼光鋭い中年の男性だ。サインは横書き。「吉」の一画目、「修」の最後、そして「一」の三本をめいっぱい伸ばし、横と縦の線をめいっぱい強調したもので、ミースや安藤忠雄の抽象的な平面図のようである。後から振り返ってみると、吉田さんの洗練された風貌は建築家のようでもあった気がする。

「(サインを書きながら)この本もう読まれましたか?」

「いえ、吉田さんの本はまだ読んだことがなくて」

「(意外そうな表情を上げながら)またどうして買ってくださったんですか?」

「もちろんお名前は知っていたのと、会社のすごい読書家の先輩が、よく吉田さんの本を読んでいるので気になっていたんです」

「そうですか。その先輩にありがとうございますと伝えておいてください」 

前作の『横道世之介』もあるので、別途購入したそちらから読み始めることにした。吉田さんご本人からも「どちらからでもいいですが、折角なら前作から読むのがおすすめです」と言われたのだ。抱いていたシリアスなドラマを書く作家という吉田修一像を心地よくはぐらかされるような、軽妙な青春小説だった。今は読み終わり、サインをもらった『続 …』のほうを読み進め中。

横道世之介』シリーズは物語全体が四月から次の三月まで一月ごとの章段に分かれているのだが、一月の章に、主人公が子猫をコートのポケットに入れて家に持ち帰る場面がある。ところで、ひとつ前に読んでいた本が多和田葉子さんのエッセイ『溶ける街 透ける路』で、こちらも一月から十二月までの月ごとに章が分かれ、様々な都市を訪れた体験が綴られている好著。その一月にも、フランクフルトでブックフェアに参加した際、なぜか地面に落ちていた鳥のヒナをすくい上げ、手に持ったままずっと歩き回っていたという不思議なエピソードが語られていた。本を読んでいるとたまにこういう偶然に出くわす。

どうやら一月は小さな動物を持ち歩く月らしい。『マチネの終わりに』から流れついた先で、世の大多数の人には知られていない秘密をふいに知り、得をした気分になった。