Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

この星の光の地図を写す

イルリサットで犬橇に乗せてもらった男は、白熊の皮で作ったズボンを履いていた。彼に、スノーモービルは使わないのか?と尋ねると、「機械は壊れたら終わりだよ」という短い答えが返ってきた。極地で生き抜くための知恵には、それが受け継がれてきた明確な理由がある。犬橇はノスタルジアに彩られた過去の残滓ではなく、現在にいたるまで優れて同時代的な移動手段なのだ。カメラは凍って動かなくなることが何度もあったが、犬たちは白い息を吐きながらいつまでも走り続けてくれた。

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数ヶ月前に東京オペラシティで開催されていた石川直樹展「この星の光の地図を写す」にたいそう感銘を受け、でも何が良かったのかと具体的に問われるとうまく言葉にできないでいる。良かったという感覚質だけがずっと心で維持されているような状態だ。展覧会のイベントの一環でこの写真か自ら展示を案内してくれるアーティストトークにも参加しようとしたが、僕は二回とも会場に着いた時にはすでに長蛇の列、整理券売り切れ、結局どちらも引き返すことになった。

そうして展覧会は会期が終わってしまったが、三たびご本人に会えるチャンスがやってきた。代官山の蔦屋書店でサイン会があったのだ。石川さんの書籍や写真集を購入すると、サインと、一人につき一問の質問をできるという。今度こそと、平日の夜八時過ぎ、代官山に向かった。蔦屋に着くと、密度の減った店内で二十人ほどの列ができている一角があり、石川さんがいた。高めの椅子に身を置き、淡々とお客さんにサインをし、会話をしている。僕も『極北へ』を買って、列の最後尾についた。

ほどなくして僕の番が来た。石川さんは、さすが北極、ヒマラヤ、ポリネシアetc.etc.と地球を縦横無尽に越境し続けている人だと実感させられるような引き締まった若々しい身体、一方で話してみると、語と語の切れ目が曖昧なような感じがして、飄々としてつかみどころがない雰囲気。目や言葉には生気があるが暑苦しいところはない。

で、僕の質問は「どこでも寝られる秘訣は何かありますか」。石川さんの答え「それは生まれ持った資質で、枕が変わって寝られない人もいれば、自分はのび太のように眠くなったらどこでも寝られてしまう」。僕は乗り物などで寝られない体質なので、何かコツがあればと思って質問したが、空振りに終わったようだ。これなら、「オペラシティでのアーティストトークの様子がどうでしたか」と、もう一つ考えていた質問を差し出せばよかったと後悔したのだった。

連休

自分の周りの人たちは大体そうだが、僕も連休は特に大きな予定はなく、後半に2泊帰省するほかは単発の予定がちらほらある程度だ。最初はつまらないなと思っていたけれど、これも実は良い時間の使い方ができているのではないかと、徐々に根拠なくポジティブになってきた今は4日目の朝。

初日は午前から毎月恒例のフットサルがあり、午後はそのままひょんなことからボーリングに行く流れになった。僕にとっては5年以上ぶり、スコアは大体100を超えるかどうかという、どちらかといえば苦手意識のあるボーリング。あまり気が乗らなかったが、行ってみると、結局、結構、楽しかった。普段一緒にフットサルをしている皆の個性もまた違った形で出たりして。なお、このようにコンフォートゾーンを意識して飛び出て自分の視野を広げることを、higeponチャレンジと呼ぶとか呼ばないとか。

3日目は休日出勤である。連休明けに休みボケするのも、作業のしわ寄せがいくのも避けたいので、何日かは短時間出社して細々とした仕事を進めたい。オフィスにはさすがにほとんど人がいない。お昼になり、平日と同じように大規模複合ビルの地下のお弁当コーナーのいつものお店に行くと、店員さんが「ゴールデンウィークも仕事ですか」と気さくに話しかけてくれた。普段は混雑していて話どころではない慌ただしさなので、ちょっとした会話をもちかけてくれたことに驚き、気持ちが明るむ。生き馬の目を抜くようなビジネス街にこうした余裕をもたらすのであれば、連休もいいことをしてくれるものだ。

後半の帰省、東京・熊本間の航空券はだいぶ前に予約したが、あらためて値段を確認してみると4万9千円。ちょっと高すぎだ。

書かない心理

前回の更新から1か月近くが経った。これくらいの期間ブログから離れると、ずいぶん長く書いてないなぁと、なんとなくモヤモヤした気持ちがたまってくる。その間、それなりに出来事はあったのだが、書かないまま日が過ぎてしまうと、次に何か起こったときも、ネタらしきものに出会ったときにも、「まあ先週も書かなかったし」という、書かずグセとでもいった心理がはたらく。先週の出来事Aでさえ書かなかったのだから、ましてそれより大きな出来事とは思えない今週のBを書くのはどうも違和感が…という謎の、無駄な辻褄合わせ。

2019年に入ってからは、それまでの自分と比較して仕事が忙しくなり、休日出勤も増え、この1か月ほどはその疲れが出てきている。1~3月が原因の4月病か。GWは大きなイベントもないので、ゆっくりと充電して立て直したいところ。

毎年書いているが、欧州サッカーのチャンピオンズリーグはベスト4が出揃って佳境をむかえ、GW中に準決勝第1戦がある。今年は特に面白い。チームとしては、クラブの規模は小さいものの若手とベテランが融合した魅力的な攻撃サッカーで旋風を巻き起こしているアヤックスを(ちなみにアヤックスは、僕の大学のサークルのユニフォームのモデルでもあるので愛着がある)、選手としてはトッテナムの韓国人アタッカーのソン・フンミンを応援している。今や彼はアジア史上最高のプレーヤーに成長したと書いても反対する人は少ないだろう。それどころか、もはや韓国人やアジア人という括りは関係なしに、世界でも最高峰の領域に入りつつあると言っていいかもしれない。

ここ1、2年は、同じアジア人としてソンの活躍のニュースを見るのが日常の楽しみになっている。遠くない将来、韓国と日本の選手が欧州のビッグクラブでコンビを組んでサッカー界を席巻するような日が来てほしい。

マチネの彼方に

平野啓一郎の『マチネの終わりに』を会社の本好きの先輩に勧めたところ、読んだ先輩が絶賛してくれ、ついでにその奥さんも感激してくれ、たいそう感謝されたことは、自分の人生の中でも最大の達成のひとつだと、誇張でなく思っている。それから月日が経った今でも相変わらずその先輩は本の虫で、数日ごとに読んでいる本が変わるほどだ。特に吉田修一の小説を愛読しているらしい。僕は読んだことがなかったが、着実に吉田修一の名前は意識に入り込んできていた。

そんなわけで、先日、氏の新作『続 横道世之介』刊行記念のサイン会が開かれると知り、機は熟したとばかりに丸の内の丸善に赴いた。時間に余裕を持って会場に着いたつもりだったが、既に長蛇の列ができている。場所柄スーツの上にコートをはおったビジネスマンが多いが、若い女性などもちらほらと混ざっている。三十分近く待って目の前でお会いした吉田さんは、ほぼ写真で見るイメージのとおり、短髪にスマートな眼鏡をかけた、眼光鋭い中年の男性だ。サインは横書き。「吉」の一画目、「修」の最後、そして「一」の三本をめいっぱい伸ばし、横と縦の線をめいっぱい強調したもので、ミースや安藤忠雄の抽象的な平面図のようである。後から振り返ってみると、吉田さんの洗練された風貌は建築家のようでもあった気がする。

「(サインを書きながら)この本もう読まれましたか?」

「いえ、吉田さんの本はまだ読んだことがなくて」

「(意外そうな表情を上げながら)またどうして買ってくださったんですか?」

「もちろんお名前は知っていたのと、会社のすごい読書家の先輩が、よく吉田さんの本を読んでいるので気になっていたんです」

「そうですか。その先輩にありがとうございますと伝えておいてください」 

前作の『横道世之介』もあるので、別途購入したそちらから読み始めることにした。吉田さんご本人からも「どちらからでもいいですが、折角なら前作から読むのがおすすめです」と言われたのだ。抱いていたシリアスなドラマを書く作家という吉田修一像を心地よくはぐらかされるような、軽妙な青春小説だった。今は読み終わり、サインをもらった『続 …』のほうを読み進め中。

横道世之介』シリーズは物語全体が四月から次の三月まで一月ごとの章段に分かれているのだが、一月の章に、主人公が子猫をコートのポケットに入れて家に持ち帰る場面がある。ところで、ひとつ前に読んでいた本が多和田葉子さんのエッセイ『溶ける街 透ける路』で、こちらも一月から十二月までの月ごとに章が分かれ、様々な都市を訪れた体験が綴られている好著。その一月にも、フランクフルトでブックフェアに参加した際、なぜか地面に落ちていた鳥のヒナをすくい上げ、手に持ったままずっと歩き回っていたという不思議なエピソードが語られていた。本を読んでいるとたまにこういう偶然に出くわす。

どうやら一月は小さな動物を持ち歩く月らしい。『マチネの終わりに』から流れついた先で、世の大多数の人には知られていない秘密をふいに知り、得をした気分になった。

アアルト展

やはり、アアルトの建築はとらえどころがない。

東京ステーションギャラリーで開催中のアルヴァ・アアルト展に行ってきた。世界を巡回中で、日本でも久々のアアルトの展覧会であるらしい。まとめ方は丁寧で、時代やテーマごとにアアルトの設計した建築やデザインした家具などが、ドローイング、模型、写真、動画などで紹介されている。特に写真は美しく、有名な木製椅子「スツール60」や自由な曲線のガラスの花瓶「サヴォイ・ベース」の製造過程の動画などは知っているようで知らなかったので勉強になったりもした。ただ、順路を巡るにつれ徐々に、アアルトの建築は現地で体験しなければわからない、どうしようもないとの感想も強まっていった。

建築の展覧会は絵画などと違って実物を展示できない、とはよく言われる。でも、だからこそ、建築の特徴や本質を表現した図面や模型が「それも独立したひとつの建築」として提示されることに面白さがある。たとえば昨年の東京ステーションギャラリーでの隈さんの展覧会などは、まさに建築の部分や素材やディテールが前面に押し出されていた点が魅力だった。しかし、ことアアルトに関しては、自分がフィンランドで実際にアアルトの建築を訪問した体験を思い出し、照らし合わせてみると、別のメディアに変換された途端、どうしてもその場の空気感が置き去りにされるような気がした。どれか特定の要素を取り出して全体を説明することがきわめて困難な一体感があり、建築およびその周辺環境それ自体以外では表すことができないものなのではないかと。キュレーション側もそのあたりの不可能性は十分にわきまえているように見えた。奇をてらって限られたギャラリーの中に世界観をでっち上げるのではなく、また巨匠のイメージをいたずらに強調するのでもなく、ただ淡々と展示を行っていた印象だ。予算が許すなら、出口でヘルシンキ行きの航空券を観覧者ひとりひとりに配布したかったところだろうが。

アアルトの建築に対しては、とらえどころがないという言葉で「とらえる」こと自体が無粋である気すらする。

カフェインセーブ

最近どこかで読んだ「カフェインを控えると健康に良い」という記事がふいに気になって、この一週間、自分もカフェインを摂取しない生活を送ってみた。それまでは大体一日に二回、午前と午後に一杯ずつコーヒーを飲んでいたのを、やめた、あるいはカフェインの入っていない飲料に変えてみた。

すると、確かに!

さして眠くもならない気がするし、胃にも優しい気がするし、夜の寝つきも朝の目覚めも良くなった気がする。すべて「気がする」であり、コーヒーとの因果関係の程度は不明だが。今までコーヒーを飲まなければ眠くなると思い込んでいただけなのか、身体にカフェイン耐性がすっかりついてしまっていたのか。

偶然目にした記事から習慣を少し変えてみたわけだが、情報の氾濫にはほとほと疲れる現在でも、まれに、自分の生活状況から見て時宜にかなったポストもあるのだ。加えてその記事によると、一度カフェインをやめると、再び摂取したときの覚醒作用も強まるのだとか。

とはいえ、なんとなくコーヒーでも飲みたい気分になることも依然としてあるわけで、そこを我慢しすぎるのは精神衛生上よろしくないのでは、とも思う。昨今の「健康」と「ストイック」が接近している風潮にはやや違和感も感じるし。そういうわけで、休日の朝食を食べ終わった今、ペットボトルのコーヒーに牛乳を混ぜてレンジで温めたカフェオレを一週間ぶりのカフェインとして飲みながら、このブログを書いているのである。

象徴としてのバルサ

土曜日は東京に大雪の予報が出ていたので、熊本に日帰りで友人の結婚披露宴に行く予定だったのをやむなくキャンセルした。早朝から羽田空港に向かったのだが、その時点では行きの飛行機は出発が遅れそうだったし、帰りの飛行機は飛ぶかがわからない状況で、熊本で足止めになると困るので、やむなく行かないと判断したのだった。友人には申し訳なく、みんなにも決まりが悪いが、仕方なかったと自分に言い聞かせている。なお結果的には、ニュースで散々脅されたにもかかわらず、東京の雪は大したことはなかった。飛行機も運航した。

なので、今はやや自己嫌悪に陥っている(先ほどあえて二度使った「やむなく」という言葉が、自己弁護したい気持ちをよく表している)。その一方で、東京に留まれて安堵している気持ちも、正直言って、ある。というのも、この2、3年はなぜか、中学二年で厚木から熊本に転校した当時の孤独感や疎外感、半年前後にわたる何をしてもどこか空々しい虚しさが胸を抜けていく軽い鬱状態…これらがフラッシュバックのように蘇っては苦しむことが多く、できるだけ熊本に身体を置いていたくないという、理屈を越えた思いが続いているから。精神的な問題を抱えていると言えるかもしれない。

さて後日、朝の散歩で近所の神社へ行くと、ふと絵馬掛けに目がいった。平成15年生まれの中学生が、絶対に合格できそうなしっかりとした上手な字で書いている「◯◯高校に合格できますように」とか、小学生低学年と思われる子の「一生けんめいれんしゅうしてバルサにはいれますように」など。こうしたわかりやすく具体的な願いごとはよいものだな、と思った。そして自分はこれを象徴的な、暗示的な意味に解釈し直して自分に引き寄せてみるか、とも思った。「一生けんめいれんしゅう」は、毎日を精神的に充実させて気持ちを整理することととらえ、「バルサにはいる」は、熊本の街に穏やかに溶け込むことと読みかえて、願をかける。

ちなみに東京で熊本の高校時代の友人を中心に毎月集まっているフットサルチーム「FCN」は昨年ユニフォームを作ったのだが、深く濃い赤と青をベースとしたデザインはバルサのそれに似ている。