象徴としてのバルサ
土曜日は東京に大雪の予報が出ていたので、熊本に日帰りで友人の結婚披露宴に行く予定だったのをやむなくキャンセルした。早朝から羽田空港に向かったのだが、その時点では行きの飛行機は出発が遅れそうだったし、帰りの飛行機は飛ぶかがわからない状況で、熊本で足止めになると困るので、やむなく行かないと判断したのだった。友人には申し訳なく、みんなにも決まりが悪いが、仕方なかったと自分に言い聞かせている。なお結果的には、ニュースで散々脅されたにもかかわらず、東京の雪は大したことはなかった。飛行機も運航した。
なので、今はやや自己嫌悪に陥っている(先ほどあえて二度使った「やむなく」という言葉が、自己弁護したい気持ちをよく表している)。その一方で、東京に留まれて安堵している気持ちも、正直言って、ある。というのも、この2、3年はなぜか、中学二年で厚木から熊本に転校した当時の孤独感や疎外感、半年前後にわたる何をしてもどこか空々しい虚しさが胸を抜けていく軽い鬱状態…これらがフラッシュバックのように蘇っては苦しむことが多く、できるだけ熊本に身体を置いていたくないという、理屈を越えた思いが続いているから。精神的な問題を抱えていると言えるかもしれない。
さて後日、朝の散歩で近所の神社へ行くと、ふと絵馬掛けに目がいった。平成15年生まれの中学生が、絶対に合格できそうなしっかりとした上手な字で書いている「◯◯高校に合格できますように」とか、小学生低学年と思われる子の「一生けんめいれんしゅうしてバルサにはいれますように」など。こうしたわかりやすく具体的な願いごとはよいものだな、と思った。そして自分はこれを象徴的な、暗示的な意味に解釈し直して自分に引き寄せてみるか、とも思った。「一生けんめいれんしゅう」は、毎日を精神的に充実させて気持ちを整理することととらえ、「バルサにはいる」は、熊本の街に穏やかに溶け込むことと読みかえて、願をかける。
ちなみに東京で熊本の高校時代の友人を中心に毎月集まっているフットサルチーム「FCN」は昨年ユニフォームを作ったのだが、深く濃い赤と青をベースとしたデザインはバルサのそれに似ている。