Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

説得や行動

熊本地震から1か月半が経った。ようやく現地では余震が収まってきたと聞くが、これから過酷な梅雨、そして夏がやってくるので、まだまだ気にかけることをやめてはいけないようだ。

さて、僕に関しては、家族や友人知人、家は無事だったものの、本震から2日後、「県外へ避難することを決断しかねている父を連れ出すため」母と弟と熊本に向かい、すぐに父と4人で脱出した。それが本当に大変だった。今ようやく落ち着いて書けるくらいに時間が経過した。当時の日記をもとに振り返ってみよう。


4月14日(木)〜16日(土)
前震も本震も、家族4人の中で熊本にいたのは父だけだった。僕は東京、弟は愛媛で仕事をしていて、普段は父と熊本で暮らしている母も、地震時は偶然にも母の父の世話のため長野県の松本に来ていた。まず4月14日(木)夜の前震では、大きな揺れではあったが、父も家(2000年竣工の鉄筋コンクリート造6階建のマンション)も無事で、家の中のモノが散らかった程度だったらしい。知らせを聞いた僕らは「そうか、よかったよかった」と胸を撫で下ろした。熊本にいた人たち、あるいは熊本が地元の人たちの多くがそうだっただろう、前震では。ところが4月16日(土)の本震の知らせを、朝起きて母からのメールで知ったときは、びっくりした。実家のある中央区も最も揺れの大きかった地域のひとつである。父はすぐに近所の中学校の体育館での避難生活に入ったらしい。僕たちは遠くから応援するしかなかった。


4月17日(日)
翌日の4月17日(日)は、僕は会社の同期の結婚披露宴があり、熊本出身の同期の人とも情報交換をする。そして披露宴では、申し訳ないが5分を空けずにスマホSNSの情報などをチェックしていた。熊本で被災した中高の友人たちは、物資を分け合ったり、給水地点を教え合ったりと奮闘している。僕は二次会を欠席して、近くだったので銀座のくまもと館に足を伸ばしてみる。自分もそうだが、何かせずにはいられないのだろう、多くの人が駆けつけ、街路沿いに行列を作っていた。ふりかけやお菓子などを何点か購入する。帰宅すると、少しずつ落ち着いてきて、「じたばたしてもしょうがない」と開き直る気持ちになってくる。そしてその夜は早々と10時頃に就寝してたっぷりと睡眠を確保。これが翌日以降の動きの良さにつながったと思う。非常時においても、あるいは非常時にこそ、衣食住のリズムを整えるという基本中の基本が大事なのかもしれないとた思う。


4月18日(月)
週が明けて4月18日(月)。熊本は不幸中の幸いか、天候は安定しているらしい。父はひとまず家に戻ったらしい。ライフラインやインフラの復旧状況は刻一刻と変化しているようだ。僕は通常通りに出社し、部長はじめ上司の方々に簡単な状況報告をする。
・実家は揺れが大きかったが、家族や友人知人は無事。
・父が一人で地震に遭った。弟とは愛媛、母はたまたま松本にいる。
・水と電気は回復(?)、ガスはまだ。
・実家のマンションは応急危険度判定判定で要注意と診断されたようだが、父はひとまず家に戻っている。
・今後は、僕が熊本に帰る可能性も考えながら、様子を見たい。

父は午前中、職場の様子を見に行ってみるとのこと。それをうけて、母と弟と僕では、次のように整理した。
・余震が活発である以上、父には早く県外(母の来ている松本など)に避難してほしい。
・ただし、職場に行ってみて、もしすべきことがあり、それが父本人の気持ちの支えになるのなら、余震の危険は覚悟のうえで熊本に留まるという選択肢もあるだろう。
…この日は会社にいながら、大半の時間を母や弟との連絡や、情報の整理に割いた。

午後になり、父の職場が1週間は閉鎖との情報に更新された。これで父が熊本に留まっている意味もなくなったので、母や弟から父に電話をかけ、県外へ避難するよう説得と懇願を試みる。が、肝心の父はまったく覇気がなく、「通常の飛行機や新幹線のルートが遮断された状況において、交通情報を自ら検索したり人に聞いたりして整理し、計画を立て、実行する」そんな決断力や行動力は皆無だった。地震に遭ったショックや避難所生活での疲労を考えても、まったく頼りなく、僕たちの言うことを少しも聞いてくれない。らちがあかない。

しかし、最悪のシナリオは、さらにまた大きな余震に遭ってしまうことだろう。

そこで、僕、弟、母の3人で一緒に熊本に駆けつけ、すぐに父を連れ出して4人で県外に脱出するという方針を立てる。中途半端に母だけ熊本に帰るよりも、全員で一緒にいるほうが、互いの気持ちと行動が明快にまとまるのではないかと考えた。弟と母は即座に賛同してくれた。今振り返ってみても、あの状況ではそれが最善策だったと思う。

そうと決まれば、会社のロッカーに置いてある防災キットとヘルメットを携えて15時頃に早退し、準備にとりかかる(他にも熊本が地元の社員はいるのに何故あいつだけ?と思われていたかもしれないが…)。最初の計画では、翌日の朝一で各々新幹線で福岡に向かい合流、そしてレンタカーか何かで熊本に入り、父を連れてすぐ福岡へ、あるいは鹿児島へ、と想定していた。新幹線の券の購入、母や弟との連絡、同時にラインやフェイスブックでも情報を募る。日も暮れかけた夕方に、より良いルートに修正される。というのも、熊高サッカー部同級生のラインを通じて、ANAに勤務している友人から、明日からANAの羽田発熊本行きの便が運行するという情報を得たから。これが決定的だった。こうして最終案が決定的する。すなわち

4月18日(月)夜に母が松本から東京へ。僕と合流。母は僕の家に宿泊。
4月19日(火)朝一に弟が松山から羽田へ。3人が合流。そして羽田から熊本へ。

あとは、不測の事態も考慮に入れつつ、大きな行動ルートからブレイクダウンされる必要事項をひとつひとつ片付けていくこと。航空券の予約。母を家に泊めるための準備(アパートの大家さんに布団を借りたり)。SNSの投稿を更新し、特に福岡への移動ルートを尋ねる。福岡の知人たちに、何かあれば頼ると連絡しておく。

実際的な役には立たずとも、沢山の人たちからのメッセージにも励まされた。また、熊高サッカー部のラインでのやりとりも、的確な情報に加えて冴えたギャグもふんだんに盛り込まれ、だいぶ気持ちが落ち着いた。他の友人たちの投稿も同様だが、緊張感はあるが悲壮感はない。とても頼もしく思った。

…こうして準備を整え、夜遅くに母を迎え、1時頃に床に就く。


4月19日(火)
父を連れ出す当日の4月19日(火)。6時半に起床し、母とタクシーで羽田空港に向かう。主な持ち物は、会社から持ち帰った防災キットとヘルメット、水、着替え、メガネとコンタクト、ケータイ、会社ケータイ、タブレット、充電器などなど。途中、昨日買ってしまった新幹線の券の払い戻しのため、JRの駅に寄る。そのための早起きだったが、無事に2万円を取り戻せた。羽田空港で朝食を摂り、搭乗ロビーで弟と合流する。そこで父に弟が電話し、三人で熊本に向かう旨のみ、初めて伝える。

幸先良く晴天で、飛行機は問題なく飛んでくれた。上空から見た熊本の景色は、民家の屋根にかけられた無数のブルーシートの水色が目につき、白川は上流部での土砂崩れの影響なのか赤茶けていて、遠目に見た熊本城は心なしかくすんで見えた。12時過ぎに熊本空港に着陸。空港の建物には入れず、屋外で荷物の受け取りなどを済ませる。熊本も暖かな晴天だった。父が車で迎えにきてくれ、家族四人が顔を揃える。父は昨晩ぐっすり眠れ、体調は問題ないとのことだった。実家に帰る車中、今日中には福岡から先へ避難する計画を、三人がかりで父に伝え、説得にかかる。
父は「交通ルートが不確定ではないか」「福岡から先の宿は確保できるのか」「お金がもったいないのではないか」なかなか熊本を離れたがらない。それらの理屈は、軽率な行動を取り繕おうとする小学生のように歯切れが悪いのだが、強情さはまさに熊本城のごとしで、僕たちも崩しきれない。そうこうしているうち、幹線道路沿いのパークドーム付近で父は
「そもそも熊本を危険視しすぎているのではないか。何十万人といる熊本市民のなかで40人程度しか亡くなっていないのだから、熊本に留まっていても死ぬようなことはないだろう」
といった内容の、非常に独創的な認識を開陳した。僕たちは数秒間か十数秒間か、凍りついて固まってしまった。しかしそれでも気持ちを立て直し、
「命の危険だけでなく、危険な場所にいることのストレス、生活の不便等々を総合的に考えて、やはり一旦安全な場所に移り、落ち着いて休むのが良いと思う」
と答え、渋々ながらも父の首を縦に振らせることに成功した。話の展開によっては殴ってでも連れ出さなければならないだろうと考えて頭のなかで色々と殴り方をシミュレーションはしていたが、暴力は不要になったようだ。車は順調に実家を目指して道路を静かに進んでいく。車窓からは、派手に壊れた建造物は見当たらないが、ガラスが割れていたり、外壁の一部が破損していたり、また道路が凸凹になっていたりと、被害が散見された。母の手伝っている点字図書館に寄り、シャワーに入れていない方のために身体拭きやシャンプーを差し上げる。

実家のマンションに着く。食器が半分ほど割れた他は物の損壊はこれといってなく、散乱した物も父がある程度片付けてくれていた。そのため僕らが到着した時点での家の状況は、世間一般ではごく普通の散らかっている家という程度だった。もともと実家は母の整頓癖によって常々ちょっともの寂しいくらいにキレイに保たれていたので、大地震で散らかるくらいで丁度良いなと正直思った。

両親は、持ち出すものの用意や近所の方への挨拶に回る。僕と弟は、交通情報を収集する。結果、在来線で福岡へ向かうことに決定する。(近所で緊急の助けが必要になった友人がいた場合はすぐに向かえるように心の準備はしていたが、そこまで切羽詰まった人は出ず、僕と家族の福岡行きに集中できた。)実家から熊本駅まではタクシーを使って、15時頃に熊本駅に到着。プラットホームで弟は福岡市内のビジネスホテルの宿泊予約を、僕は翌日の飛行機の予約を済ませる。15時51分発の電車に乗り込む。最初は安全運転のため徐行する区間も多かったが、熊本から離れるにつれて電車の速度も速くなっていった。そして、それに比例して安心感もどんどん深くなっていった。田原坂、玉名、荒尾…。福岡へ近づくにつれてひとつずつ登場する駅名の、なんと安堵と希望を感じさせることか。日常のスピードとペースへ漸次、回帰してゆく感覚だ。そしてついに、自分たちが滞在していた数時間の間はこれといった余震も経験しないまま県境を越え、福岡県へ足を踏み入れる。夕方にかけて傾きの深くなってきた陽の光に照らされた緑の平野…筑後の風景がこれほど美しく平和に見えたことは後にも先にもない。

19時に博多駅に到着する。今回ほぼ無傷の福岡は、本当に頼もしい隣人だった。家族の皆の表情にもようやく安堵の色が滲み出してきた。天神近くの宿にチェックインし、夕食をとる。ところが、部屋に戻り、シャワーを浴びるなどしてようやく落ち着けると思った22時頃、熊本が地元の友人から届いていたメッセージを見て仰天する。なんでも
「父が県外の避難先から、様子を見に熊本地方へ帰ろうとしている」
テキストの返信と直接の電話で、熊本へ向かうのは危険すぎることをまず叫ぶ。そのうえで、もし行くとしたらどのようなルート選択が最もリスクが少ないか、などを話し合う。どこも父の説得に骨を折っているらしい。とりあえず鉄道と道路の情報を中心に僕の知る限りの現況を伝え、説得の健闘を祈りつつ電話を切る。これで本日すべきことは本当に終えたと思え、ようやく少し緊張が緩んだ。タフな手術を終えた後のブラック・ジャックの言葉が唐突に思い出された。

「誰が来ても死んだように眠っていると言ってくれ。死んだと言ってもいいですぜ」