Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

笑顔の誕生

少し前に暑くてたまらんという内容の記事を書いたら、その思いが夏に通じたのか猛暑日真夏日が減って過ごしやすくはなった。だが、日が短くなれとも天気が悪くなれとも頼んでいないので、自然というものは中々言うことを聞いてくれないものだ。

普段東京で生活していて思うのだが(東京に限らないのだろうが、おそらく大都市である東京が顕著)、どうして広告に写っている人達はああも笑っているのだろう。電車の車両で、店という店で、有名無名の男女さらにはキャラクターが満面の笑みを競い合っているかのごとしで、楽しそうで結構なのだが、正直疲れる。一体いつの頃からの現象だろう。昔の人がタイムスリップして現代の都市にやって来て溢れかえる広告を見たら、なんと素晴らしい時代なのかと錯覚するのではないだろうか。

いつの頃からか…詳しく研究したわけでも何でもないのだけれど、とりあえず一人で考えてみると、やはり20世紀のアメリカの大衆社会の発達とともに起きてきた現象なのではないかという気がする。ほんの一瞬目に触れられるだけで、その商品があなたに幸せをもたらすことを伝えなければならない。そんな技術やら競争やらが歯止めのかからないインフレのように上昇してきて今に至るのではないかと思う。

しかし先にも書いたようにこうも多くの笑顔を見るのはちょっと疲れる。最近仕事の関係で首都圏を中心としたいろんな再開発のまちづくり(この言葉はなぜかいつも平仮名だ)の宣伝などを目にするのだけれど、本当にどこも賑わっていてイベントが催されたりしていて人々が大喜びで笑いながら「まち」にコミットしているらしい。しかし一方で、そういう写真を見たときにしばしば感じる、どこかスッキリしない気持ちは何なのだろうか。笑顔の背後に、あからさまではないにしろ何かしら強制された賑わいだの一体感だのを感じてしまうところがあるのか。

かくかくしかじかで、僕個人としては「自分も周りもとにかく笑顔で明るく」といったメンタリティは、テレビ画面の中の松岡修造と朝ドラのヒロインだけが神に許された特権だと考えるくらいが、やはり控えめでちょうど良いのではないかと思う。「笑権神授説」とでも言ったところか。しかも、この機会に過去の朝ドラを振り返ってみると、自分が観た中ではこの特権ををあえて使用しなかった「ちりとてちん」が落ち着きがあって一番面白かったなぁと気付くのだから、朝ドラのヒロインにすら必須の要素でもないのではと思う。

(今回書きながら思い出したのだけれど「ちりとてちん」は良いドラマだったし、また観たい。ネガティブでへたれな主人公をはじめ登場人物それぞれに味があったし、オープニングの音楽と映像も一番好きだった。主人公が落語家だったから、すなわち笑いについて一般人より客観的に考えるべき職業だったから、いくらへたれとはいえ主人公自身が他の朝ドラのヒロインのようには気楽に笑顔を振りまくわけにはいかなかったとも思うのですが、どうでしょう。)