Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

HELLO

午後三時に上野の森美術館に着いてみたら、建物の外にまでものすごい行列ができていて驚いた。三十分くらいは待つのではないかと思ったけれど、せっかく来たのだからとチケットを購入して行列に加わった。真夏の炎天下の日にありながら、木立と庇の涼しい影の下、列をなすお客さんたちは待ち時間をさほどの苦にはしていないように見えた。一番混んでいる時間に来てしまったかしら、まあ仕方ないよね、といった悠々とした声も聞こえてきたし、また別の所からは、みんなじっくり見ているんだねと、それほど見応えのある展覧会なのかなあという期待を言外に漂わせているような声もあがっていた。

会場に入ると、大きく「HELLO」と描かれたウェルカムウォールが正面に立っている。そこから左に曲がると展示の始まり。まずは彼が十代の頃から集めているという夥しい数の写真や絵画のコレクションが、幅の広い通路の両側の壁を埋め尽くしている。ぱっと見た瞬間は、量にものを言わせるだけでさして中身のない展示かとひねくれて疑ってしまったが、ひとつひとつの額を丁寧に見ていくと、プロの写真家の作品としてのポートレートから子供のお絵描きのようなイラストまで多種多様なイメージが、ある審美眼をもって選ばれているように思え、全体が幸せな秩序とバランスを醸し出しているように感じるのだった。それはたとえば、ほんの数枚くらいなら誰かが勝手に自分の撮った別の写真にすり替えても崩れることのなさそうな、開放的で良い加減のバランスだ。

次にたった三メートル四方の広さしかなかった最初のお店や、現在の仕事部屋を再現した展示スペースが続く。展覧会が写真撮影可能で、しかも各コーナーに配置されたQRコードを利用してスマホで音声案内が聴けるという試みのために始終かしゃかしゃと鳴っている撮影音も、すでに慣れて気にならなくなっている。それから「頭の中」と名付けられた、アイデアの源となるイメージたちのスライドに合わせて本人の語りが流れる部屋があらわれる。そのなかに「絵がさほど得意ではないので言葉でアイデアを表現することもあります」といった内容が語られていた部分があったのだが、たしかに、この展覧会でも言葉が魅力的だ。それはなにも創造行為に通底するキーワードを展覧会用に拵えたといった類のものではなくて、簡潔で率直な言葉だった。各コーナーの見出しもこんな感じだ。
「私は十代の頃から写真をコレクションしてきました」
「これが最初のお店です」
中学校の英語の教科書の例文のようなシンプルな一文がゆかしく思える。

さらに展示はデザインスタジオの再現、広告写真、そしてカラフルなストライプがペイントされた自動車ときて、嬉しいことに二階にも続いてゆく。階段を登ってまず目に入るのは世界各都市で撮ったというスナップショットの数々。そして見渡してみればこれまでの様々なコラボレーションのプロダクト。ボーンチャイナエビアンの瓶にストライプ、ペンは色とりどりでケースは極薄、『チャタレイ夫人の恋人』の表紙に花をあしらった特別な装丁、ラジオにレザーの覆い、スノーボードに凝った模様、彼が少年時代にのめり込んでいて大怪我によりその道を諦めることになるも愛情は持ち続けた競技自転車にも大きな場所が与えられ、腕時計には遊び心。どれも見ているだけで楽しくなるような形と色に溢れている。面白いことに、カラフルといっても鮮やかな色ばかりを使っているわけでは決してない。むしろ地味な色の使い方が心憎い。展示も後半のここまでくると、魔法使いハウルのように気さくで才気ある彼の人柄を、実際には会ったことも見たこともないのに垣間見ているような気がしていることに、はっきりと気付く。

腕時計の展示の後ろに回り込むと、なんの説明もなしに、というより説明も要らずに、何色ものボタンが一面に貼られた壁面があれわれ、その向かいには世界各国の店舗の写真とそれぞれに使用されている建材の見本が置かれている。最後にショーの映像とコレクションが展示されたスペースに導かれ、壁にあしらわれた剽軽な表情とポーズの彼の全身写真と一緒にお客さんは記念撮影をしてから「HELLO」と同じ要領で描かれた「GOOD BYE」に沿って歩き、一階の出口へ降りていく。暑さ厳しい夏の日々に、華やかで晴れやかな気持ちを吹き込んでくれたこの展覧会は「HELLO, MY NAME IS PAUL SMITH」。