Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

デンマークへ

来週末から遅めの夏休みをとって、一週間デンマークに旅行に行ってくる。2年ぶりの海外旅行だ。

デンマークは、自分で調べても、行ったことのある人たちから話を聞いても、いたって安全で平和で快適なようだ。そして一般の人には馴染みが薄いかもしれないが、傑作建築の宝庫でもある。今のところ順調に準備が進んでいるが、先ほど気付いたことには、これまで自分は海外旅行で旅程の最初から最後まで宿が予定通りに泊まれたことは一度もない。今回も、少なくとも一回は二回のトラブルがどこで来るか…。

ここ数日は衣服類を再確認したりしながらも、旅行直前の妙な手持ち無沙汰からか、家の整理、いわゆる断捨離がやたらとはかどったりした。旅とは思わぬ影響を日常に滲ませるものだなあ。

TIMELESS / タイム / タイムレス / ノー・タイム

先の月曜日の夜、東京ではけたたましい雷が続いた。自分は幸いにも帰宅していたので、月でも見物するかのように窓を開けて雷の鑑賞をきめこんでいたが、ひっきりなしに続くあまりの轟音におそれをなして、家の三つの窓を全て閉めた。

ウォルター・デ・マリアの「ライトニング・フィールド」を一度見てみたいと思っている。これはアメリカの平原1マイル×1キロメートルの範囲に400本のスレンレス鋼のポールが整然と並んだランドアート作品。大学の先生の一人が、きわめて人工的で幾何学的なアートを挿入することで自然の環境を巧みに炙り出していると称賛していた記憶がある。今まで自分は勝手に、ステンレスのポールに雷が落ちることを意図したアートだと勘違いしていたが、ネットの情報によると「実際に雷が落ちることはまれである」。

ウォルター・デ・マリアの別の作品は、直島の地中美術館で見たことがある。写真で紹介されていることも多い「タイム / タイムレス / ノー・タイム」だ。天井から光を採り入れた大階段状の部屋の中央の踊り場に直径2メートルを超える巨大な花崗岩の球が据えられ、両側の壁面には黄金色に塗られた祭壇のような彫刻が並んでいる。どの時間にも属さない永遠性のようなものを感じさせる稀有な空間だった。

    *    *    *

『TIMELESS』 は、作家の朝吹真理子さんの新作長編小説。芥川賞受賞以来7年ぶりの長編小説で、たぶん多くの読者が待ち望んでいた刊行だ。雷の日の翌日、その朝吹さんと歌人の小佐野彈さんの二人によるトークイベントを聴きに行ってきた。大型書店のカフェ兼イベントスペースに数十人のお客さんが集まっていた。小佐野さんは今回初めて知ったのだが、オープンリーゲイで、しかし声高に怒りを表明するようなアクティビストでもないという、批評精神と諦観の入り混じったような姿勢がとても興味深かった。

そして朝吹さん。端正な容貌もさることながら、その佇まいや立居振舞い、落ち着いた声や話し方から醸し出される知性と優雅さはほとんど驚異的で、しかも話の内容も機知に富んでいて緩急自在。1時間半ほどのトークを通してにこやかに穏やかに小佐野さんの話にうなずきつつ、その同じ口から時たま、どこでそんな知識を仕入れたのかと思うような博物学の話題や、この人の目を通したら日常はこう見えるのかと驚くしかない飛躍した喩えがとびだしてくる。なお、朝吹さんと小佐野さんは偶然にも小学校時代からの知り合いで、文通をしていた時期もあったのだとか。

数日後、『TIMELESS』の最初の10ページほどを読んでみた。聞いていたとおり、また以前の作品とも似て、次々と脈絡なく文章が流れていく。非常に独特な作風なので誰にでも気楽に勧められるものではないふが、一貫性や統合に対する強迫観念からまったく自由に、ぐにゃり、ぐにゃりと文章や場面が変幻してゆき、それで一つの作品世界を屹立させてしまう朝吹さんのつくり方には畏敬や憧憬の念を抱く。ご本人はトークイベントの中で「統合…苦手ですねぇ」みたいに苦笑いされていたけれど。

後輩たち

なぜか7月に入ったあたりからクライアントからの作業の依頼が増加し、お盆もお構いなしという感じで舞い込んできて、どうしたものかという状況だ。そこで上司の方とも相談し、一年目から三年目の若い衆にも少しずつ作業を振ることにした。僕は彼ら彼女らの作った資料を指摘確認する立場になった。それは時間的には楽になったが、自分で作業するのとはまた別の大変さがある。意図をくみとったり、与件の見落としがないかを短時間で判断しなければならなかったり。内容によっては、そもそも自分の理解が浅いということもある。それでも、みな地力があって優秀。まだ入社4か月の新人の二人も飲みこみが早いし、二年目より上の人たちは一を聞いて十を知る。

そんなことがあって今さら、先輩後輩という関係が日常で生じるようになった中高以来、常に後輩には恵まれてきたと気付いた。能力的にはもちろん、上下関係を超えてサッカーのプレースタイルのファンであり、間近でプレーを見れて良かったという人も何人かいる。

和泉川、谷戸の風景

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先の日曜日、知人の溝部さんが設計した住宅のオープンハウスに訪れた。場所は横浜市の内陸部、相鉄線いずみ中央駅から十分ほど歩いたのどかな住宅地で、少しだけ高台になっている敷地に木造二階建てのその家は建っていた。午後二時ちょうどに到着すると、現地集合することにしていた友人が既に着いていて、二人して溝部さんの説明を聞きつつ家の中を見て回る。四角い平面の西側を三角に切りかかれたテラスが特徴で、近所の森への眺望がうまくコントロールされた気持ちのいい家だった。

いずみ中央駅からひとつ隣のいずみ野駅で電車を降りて友人と別れ、そこからバスと徒歩で北に向かい、東海道新幹線の線路の上を横切り、和泉川に出る。あまり有名ではないが、和泉川は横浜市を北から南に流れる二級河川で、谷戸の風景を守る河川整備の取り組みが2005年の土木学会デザイン賞の最優秀賞を受賞している。近くに来たのを良い機会に、歩いてみることにしたのだった。

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和泉川から分岐するように池が開けた宮沢遊水池から北へ遡るように歩きはじめる。写真のように、両側に斜面林、中央に自然の水敷の和泉川の小さな流れ、その間に道や宅地や畑地が平行に続く。浅い谷によって市街地や幹線道路から隔絶された、緑の匂いのたちこめる谷戸の風景は、汗がぼたぼたと落ち続ける現実離れした烈暑も手伝って、しばしの別世界のようだ。静かでありつつ人の生活の気配もあり、岸辺で遊んでいる親子や畑仕事に精を出すおじいさんと行き合った。鳥や蛇も見た。地形と自然と土地利用の構成のゆるやかな秩序、その変奏が美しい。川沿いを数キロ歩き、最後は相鉄線三ツ境駅から帰途につく。

もともと和泉川のことを知ったのは、都市再生の事例を集めた書籍『世界のSSD100』(SSDはSustainable Site Designの略)の中で紹介されていたから。その本の中で、和泉川において谷戸の景観の保存や多自然型の河川空間の整備が成功した理由が二つ挙げられている。ひとつは、二級河川であるため、まちづくりの主体者である横浜市が同時に河川管理者であり、調整や連携がよく機能したこと。もうひとつは、市の職員だけでなく市民をも巻き込み、その交流が円滑な合意形成に寄与したこと。なお、同書の和泉川のページのとびらには、水辺にふくらはぎまで浸かって遊ぶ一人の男の子の後ろ姿の写真が掲載され、「河川の整備によって一番恩恵を被るのは、最も視線が地面に近い人たちかもしれない」という言葉が添えられている。このようなきざな言い回しを読んだり聞いたりするのは嫌いではない。

悪や残虐

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7月中旬以降の異常な暑さには参った。下旬になってやっと一旦涼しくなったと思ったら今度は台風だ。おのずと室内で過ごすことが多く、ワールドカップも終わったので、また読書の時間も増えた。

中でもハンガリー出身の作家アゴタ・クリストフの『悪童日記』には鮮烈な印象を受けた。舞台は第二次世界大戦さなかと思われるヨーロッパで、小さな町の祖母の家に疎開に来た双子の少年の話。戦争により国土も人心も荒廃した世界で、一心同体の双子は独自の行動原理によって(それはしばしば非行や残虐行為ともなる)生き抜いてゆく。おばあちゃんと暮らすことになった子供、という点は『西の魔女が死んだ』と似た設定だが、その牧歌的な小説世界とは似ても似つかない。

この『悪童日記』を読んでいてはっきりと意識化されたのだが、自分の場合、長編小説に限っていえば、夏は悪や残虐がテーマの小説を求める傾向があるようだ。今回の『悪童日記』、さらにその続編も読み進めているアゴタ・クリストフの他、過去にはドストエフスキー中村文則がその代表格。一方、冬の季節には流れるようなエレガントな文体の作品が読みたくなるという気がする。過去には谷崎潤一郎ジェーン・オースティンアントニオ・タブッキなど。あまり小説や作家をラベル分けしすぎるのは良くないことであるが。

納涼怪談みたいな風習があるように、基本的には自身の内面と向き合う行為である読書なり物語体験なりが、実は外の気候にも大きく影響されていて、その相関関係や因果関係が科学的に証明されたら面白いと思う(自分が知らないだけで、もうとっくに証明されているのかもしれない)。少なくとも「夏は悪」という組み合わせは、かなりの実感を伴って自分の季節感を形成してきている。

フルコート

土曜日、フットサルの友人に誘われてサッカーの試合に助っ人として参加した。その友人も助っ人で、僕らが助太刀するチームはIT系の会社の人たちのチームだった。

場所は巣鴨駅の近く、イチョウの木々が立つ施設だった。なにしろ酷暑なので、試合では皆まずは無理をしないことを第一に、こまめに交代などしてどうにかしのぐという感じだった。僕はラージコートで11人でする試合は実に三年ぶり。なので体力や試合感覚などが不安だったが、序盤にミスキックがゴールになるという幸運があった。左コーナーキックファーサイドに蹴ろうとしたところ、足の振りが少し詰まって、結果、キックが直接ゴールに入ってしまったのだ。あえてポジティブな教訓を引き出すなら、遠くをめがけてチャレンジしたことが良い結果につながった、とでも言えるか。

この一点でチームに貢献したという安心感を得て、その後は報われない可能性の高いダッシュなどはひかえてゲームを過ごした。繰り返しになるが、皆無理しないことを第一に。足腰の疲れよりも、暑さの中で意識を保っていることがまず大変という過酷な状況。とはいえ、久しぶりの大ゲームは楽しかった。フットサルと比べて、フルサイズのコートは例えばロングボールが蹴れることが面白い。休憩中には、メンバーの方が連れてきた子どもたち−小学四年生の兄と一年生の妹−が氷水をかけてくれたりもした。

参加したチームの人たちは、平均年齢が僕らよりもひと回り上に見えるのに、定期的に集まって淡々とサッカーを続けている感じでとても好感を持った。サッカーは動きが激しいので体力的にも環境的にも若いうちしかできないと思っていたが、意外に長続きできるサステナブルな競技なのかもという、ちょっとした発見があった。(その発見の場所が巣鴨だったことも、何やら象徴的な気がしないでもない。)

フランス優勝

早いものでロシアワールドカップも終わった。今大会は好ゲームが続き、ファインゴールも多い非常に面白い大会で、心ゆくまで楽しんだ。

日本代表の健闘、ドイツのまさかのグループリーグ敗退、ベルギーやクロアチアの躍進、話題となったVARなどなど、語り出せばきりがないけれど、やはりここはストレートに優勝国について取り上げよう。

フランスの戦いぶりは見事だった。特に決勝トーナメント以降は組織と個が融合した内容での完勝だった。思えば、フランス留学をきっかけにこのブログを初めた2010年の秋は、南アフリカワールドカップのすぐ後の時期だった。8年前のその大会でフランス代表チームは内紛により空中分解して惨敗。世界に醜態をさらす格好となった。当時、周りにいたフランス人たちとその話をしたとき、彼らは「本当に恥ずかしい」「いまや人気の選手なんていねえよ」などと、心の底から悲しそうな、情けなさそうな表情をして言っていたものだ。

そんなどん底の状態から少しずつ這い上がり、スター軍団として臨んだ今大会ではついに最高の結果を出したフランス。ワールドカップを観るにあたって、いい時もあれば悪い時もあると達観した眼差しを持ちたい気持ちと、喜怒哀楽の感情の渦の中に入り込んでカタルシスを味わいたいという気持ち。その両方の気持ちが一層深まった、フランスの優勝劇だった。