Weekend Note

2010年ブログ開設。日常、建築、旅行などについて書いています。

イヴェールボスケ

二泊三日の金沢の旅の最終日は、西の加賀市方面へ行ってみる。金沢駅のコインロッカーにトランクを預けて九時半発福井行きの列車に乗る。十時半頃に加賀温泉駅に着き、タクシーで四年前にオープンしたパティスリー兼カフェの「イヴェールボスケ」に向かう。一面に田畑が広がり、少し先には辺りをやわらかく囲むような林の木立がある。そんなのどかでおおらかな自然の風景に、十数メートル四方の小さな黒い平屋建ての方形屋根が、本当にぽつんと建っている。何でも、建物の計画が始まった時点では電気も水道も届いていなかった敷地だったそうだ。

建物の設計を手掛けたのは堀部安嗣さん。中に入ると、エントランスからパティスリーの売り場スペース、中央のホールとキッチン、奥のカフェスペースと、木や石の自然素材のアンサンブルによる落ち着いた空間が続いている。お店の女性からカフェスペースに通されて、ゆっくりと腰を落ち着ける。他にも二組ほどお客さんが来ていた。この日は天気が万全ではなかったけれど、よく晴れた日には遠く白山の峰も望めるという。ほどなくして出されてきた濃厚なモンブランとあっさりしたコーヒーも絶品だった。

食べ終わって、お会計を済ませ、パティスリーのウィンドウなど眺めていると、ご店主から
―タクシーで来られましたよね。建築をされている方ですか
―ええ、東京で設計の仕事をしています
すると、中央のホールの椅子に案内してくれた。
―堀部さんはよくここに座られるんですよ。ゆっくり見て行ってください
―本当に何もない、けれどのどかないい所ですね
と話の水を向けると、まさにそれがこの場所の良さであること、そんな場所に建つお店として、皮相的な洋風の建物や、ガラス張りやコンクリート打放しのようなスタイリッシュな建物はふさわしくないと思い、堀部さんに設計をお願いしたこと、厨房の計画については最後まで数センチ単位の調整をしてもらったこと、などを語ってくれた。オープンして早や四年。今では地元のお客さんだけでなく、建築の見学者も毎日のように訪れているらしい。

今日はこれから片山津温泉の建物を見に行きますと話すと、タクシーを呼びましょうかと言ってくれたが、天気も悪くないので二、三十分ほど歩いて行きますとお伝えする。こうしてお店を後にして、東の潟の方へ通ずる田舎道を行く。この道をゆっくり歩いてみて、また先ほどの駅からイヴェールボスケまでのタクシーの道のりも思い返してみて、「冬木立」を意味する名前のこのお店が、一帯の自然景観の魅力を実によく感じられる場所を選んで建てられていることにあらためて気付く。確かに何もない不便な場所かもしれないが、自然の中に人の居場所を生み出すという建築の原初の姿を見るような気がする。お店を開くと決めたときは、ご店主はどんな意識だったのだろう。勇気を持った大きな決断だったのか、あるいは魅力的な世界がそこにはっきりと見えていたからごく自然な選択だったのか。店先まで見送りに出てもらいながら、大事なことを聞き忘れてしまったという気がする。